2006年09月02日

試合前の祈りという伝統

 得るものがあれば、失うものもある。でも本当は全部欲しい。無理は承知しつつ、わがままなことを口にしてみる主務・神林です。
 旧グラウンド跡地で新校舎建設の工事が始まりました。
 高いフェンスが築かれて瓦礫や土が積み上げられた旧グラウンドを見ると、「大切なもの」を失った寂しさを禁じえません。ましてや新フィールドを使用する以前のOBの感情は、僕が想像できるものではないのでしょう。今までのFIGHTERSを数十年間築き上げてきたグラウンドは、すでに「グラウンド」ではなくなってしまいました。とあるコーチが寂しそうな目でグラウンドを見ていたのが、とても印象的でした。
 伝統とは現役に何かを与えるものではなく、現役が新たに継ぎ足して行くだけのものでしかない、ということは常々言われることです。
 旧グラウンドを離れ、新フィールドに移転して初めてのリーグ戦を迎えるにあたり、新チームのスタートから今までずっと手探りのまま来てしまった感があります。春季シーズンでトレーニングに重点を置いたことや人工芝へと環境が変わったことによるものも含め、これまでの年間の「ルーティーン」を離れたスケジュールを進めることに、選手もスタッフも戸惑いながら、手探りの半年間だったと思います。
 しかし、それは「伝統」に縛られない新たな試みの半年間でもありました。その中で成功も、もちろん失敗もありました。そして、「伝統」に照らしてその成果と僕達自身の成長が試される7試合が目前に迫りました。
 FIGHTERSに所属する以上、「伝統」に照らされることは避けられないことです。しかし、それに縛られないように、むしろ打ち勝つように、自らのモチベーションを保つことは、時に大きな苦痛や困難を伴うものでもありました。その中で無為な時間を過ごしたことも、正直に言えば数多くありました。
 「自分の『神』を持っている奴はいるか?」
 監督が練習後のハドルで部員に問いかけたことがあります。いわく、人が見ていないからといって手を抜くことは無いか?自分の弱い部分が顔を出した時に、自分を踏みとどまらせる「内面からの声」を発する何かを持っているか?と。
 誰も見ていなくても「神」は見ている、そして、その結果は必ず自分に返ってくる。そう思えば絶対に手を抜けないし、抜かない。信心深さとは別にそのような「神」を自分の中に持っておけ、という話でした。
 また、目に見えるものを全てだと思うな。自分の目に見えていないものの中に本質があることも多い。そのようなものにも目をむけよ、ということでもありました。
 僕らが試合前に行う「お祈り」もそのような自分自身の「神」への問いかけを通じて「戦いへの決意と覚悟」を固める場です。関学がキリスト教の学校であるためお祈りもキリスト教の形式に則って行いますが、「自分の中の神」に照らし合わせても問われることは同じだ、という考え方によるものです。「神」という言葉に抵抗があれば、「真理」と置き換えても良い、とも。
 「僕自身が『僕自身の神』を納得させられるだけの準備をしてきたか?」
 「僕自身が『僕自身の神』に誇れる戦いをすることができるか?」
 この原稿を書きながらいままでを振り返っても、先に思い浮かぶのは失敗や後悔。胸を張れない部分があることも事実です。しかし、一つはっきりと言えることは、僕自身が誇れる戦いをすることで「僕自身の神」を納得させていくしかない、ということです。そして、必ずそれを成し遂げる、ということ。
 前回も書きましたが、神戸大学戦は決して楽な戦いにはならないでしょう。当然、劣勢に立つこともあるでしょう。その時にどれだけ流れを呼び込めるか、ということは、部員一人一人が「自分自身で」呼び込む流れの集まりでしかなく、チームでは呼び込めないものです。
 松本前主将が今年のイヤーブックに、試合は『生き様を表現する場』と書いていますが、この試合でもそのような場面で僕たちの「生き様」が顕になるのでしょう。それを受け入れる覚悟は決めました。それがより良い結果として現れるように、もう少しだけもがいてみようと思います。

初戦・神戸大学戦まで、「あと1日」(9月2日現在)
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